第285話 人と動物の看取りは、何が違うのか――獣医師と医師、二つの現場で見てきた最期の時間【東京・保谷駅前こころのクリニック】|保谷駅前こころのクリニック|西東京市「保谷駅」北口すぐの心療内科

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第285話 人と動物の看取りは、何が違うのか――獣医師と医師、二つの現場で見てきた最期の時間【東京・保谷駅前こころのクリニック】

第285話 人と動物の看取りは、何が違うのか――獣医師と医師、二つの現場で見てきた最期の時間【東京・保谷駅前こころのクリニック】|保谷駅前こころのクリニック|西東京市「保谷駅」北口すぐの心療内科

2026年5月04日

受話器を持つ前に、もう一度、呼吸を見ます。

胸が浅く上下している。
呼びかけへの反応は弱い。
体温も落ちてきている。

時計を見る。

このまま入院を続けるか。
家族に連絡するか。
自宅へ帰れる時間が、まだ残っているか。

獣医師として動物医療に携わっていた頃、こうした場面がありました。

「今夜は、そばにいてあげた方がよいかもしれません」
「可能であれば、ご自宅で看取ってあげてください」

命の時刻を正確に読むことはできません。

それでも、呼吸、目の力、体温、食べる力、反応、これまでの経過を見ていると、「そろそろ最期の時間が近い」と感じることがあります。

翌日、飼い主さんから連絡をいただく。

「先生、ありがとうございました」
「家で看取ることができました」
「最後に一緒にいられてよかったです」

転勤して別の動物病院へ移ったあと、以前診ていた動物のご家族から連絡をいただいたこともあります。

そのたびに感じていました。

看取りは、死亡を確認するだけの医療ではない。

残された時間を、その子と家族のもとへ返すことも、看取りに関わる医療なのだと。

人の医療でも、同じ電話をかけた

その後、医師として人の終末期医療に関わるようになりました。

高齢の方。
長い病気と向き合ってきた方。
治療による回復よりも、最期の時間をどう過ごすかが大切になった方。

ベッドサイドで呼吸を見る。
意識状態を確かめる。
手足に触れる。
これまでの経過と、現在の全身状態を確認する。

そして、家族へ連絡します。

「今日、状態が大きく変わる可能性があります」
「可能でしたら、面会にいらしてください」

電話を受けた家族の声が、一瞬止まる。

「今日、ですか」

こちらも、言葉を選びます。

「時間を正確にお伝えすることはできません。ただ、来られるのであれば、今のうちがよいと思います」

その日のうちに亡くなる方もいます。
少し持ち直し、数日を過ごす方もいます。

予測が外れることはあります。
それでも、連絡しなかった時間は取り戻せません。

医療者にとって数時間でも、家族にとっては、その後何年も心に残る時間になるからです。

「最期に間に合う」とは、死の瞬間を見ることではない

看取りでは、「間に合った」「間に合わなかった」という言葉がよく使われます。

けれど、最期に間に合うとは、亡くなる瞬間を正確に見ることだけではありません。

そばに座る。
名前を呼ぶ。
手や体に触れる。
いつもの声で話しかける。
これまで言えなかった「ありがとう」を伝える。

それができた時間も、「間に合った時間」です。

人の医療でも、動物医療でも、家族が到着したあとに呼吸が変わることがあります。

それまで反応が乏しかった方が、声にわずかに反応する。
眠っているように見えた動物が、家族の声で目を動かす。

その反応が何を意味したのか、医学だけでは断定できません。

それでも家族にとっては、

「声が届いた気がした」
「待っていてくれたのかもしれない」

という、大切な記憶になります。

最期に間に合うとは、死の時刻に立ち会うことではありません。残された時間に、もう一度、家族として戻ることです。

人と動物の看取りには、決定的な違いがある

人と動物の看取りには、共通点があります。

同時に、簡単には同じにできない違いもあります。

人の医療では、ご本人の意思を確認できることがあります。

「できる限り治療を続けたい」
「苦痛の少ない時間を優先したい」
「最期は家で過ごしたい」

本人が話せない状態でも、以前の言葉や生き方から、その人が望んでいたことを考えられる場合があります。

動物は、それを言葉では伝えられません。

「もう治療をやめたい」
「まだ生きたい」
「病院より家へ帰りたい」
「今日は苦しいけれど、明日もここにいたい」

どれほど目を見つめても、答えは返ってこない。

飼い主は、食べた量、眠り方、呼吸、歩き方、呼びかけへの反応から、その子の気持ちを考えます。

そして最後には、本人の言葉がないまま、本人のために決めなければなりません。

治療を続けるか。
検査を追加するか。
入院させるか、家へ連れて帰るか。
自然な最期を待つか。
安楽死を選ぶか。

動物の看取りでは、家族である人が、介護者になり、治療の決定者にもなります。

だから、悲しみの中へ「自分が決めた」という重さが残ります。

病院でできることと、家でしかできないこと

終末期の動物を病院で看るか、自宅へ連れて帰るか。

これは、どちらが正しいという問題ではありません。

病院には、酸素、点滴、注射、観察、急変時の対応があります。

家には、いつもの床、家族の声、慣れた匂い、好きだった場所があります。

病院でしかできない医療がある。
家でしか守れない時間もある。

状態によっては、治療を続けるために入院が必要です。
一方で、できる治療が限られてきたときには、家へ帰ること自体が、その子のための選択になることがあります。

「ご自宅で看取ってあげてください」

この言葉は、「もう何もしません」という意味ではありません。

治すための選択肢が少なくなったあとも、苦痛を減らすことはできる。
安心できる場所へ戻すこともできる。
家族と過ごせる時間を守ることもできる。

治療が終わることと、医療の役割が終わることは、同じではありません。

最期をどこで、誰と過ごすか。
そこまで考えるのが、終末期における医療です。

家族を呼ぶ電話には、二つの時間が流れている

「今日、来ていただいた方がよいかもしれません」

この連絡を受けた瞬間、家族の中では時間の流れが変わります。

仕事をどうするか。
子どもを誰に預けるか。
遠方から間に合うか。
ほかの家族へ、どう伝えるか。

動物の場合にも、同じことがあります。

家族全員が帰宅するまで待てるのか。
離れて暮らす子どもへ連絡するか。
自宅へ連れて帰るなら、何を準備するか。

医療者に見えているのは、身体の時間です。

呼吸がどう変わっているか。
循環がどこまで保たれているか。
意識や反応がどうなっているか。

家族に流れているのは、生活の時間です。

あと何分で到着できるか。
何を伝えたいか。
最後に何をしてあげたいか。

看取りの連絡は、この二つの時間をつなぐものです。

命の終わる時刻を当てるための電話ではありません。

家族に残された時間が、知らないうちに消えてしまわないようにするための電話です。

間に合わなかった人もいる

最期に立ち会えなかったことを、何年も責め続ける方がいます。

「仕事へ行かなければよかった」
「もう一日早く帰ればよかった」
「病院からの電話に、すぐ気づけばよかった」

しかし、命は家族の予定に合わせて終わるとは限りません。

少し席を外した間に亡くなることもあります。
家族が帰宅する直前に、呼吸が止まることもあります。
前日まで食べていたのに、急に状態が変わることもあります。

中には、家族が部屋を離れたあと、静かに亡くなる動物もいます。

それを見て、

「一人で逝かせてしまった」

と自分を責める方がいます。

けれど、最期の数分にその場にいなかったことと、その子を一人にして生きさせてきたことは、同じではありません。

あなたがいなかったのは、最後の一場面です。

その子の記憶にあるのは、それまで何度も帰ってきたあなたの足音、声、手の感触、毎日の匂いです。

看取りに間に合わなかったからといって、一緒に生きた時間まで間に合わなかったことにはなりません。

亡くなったあと、「ありがとう」と「ごめんね」が同時に出る

人の死亡確認の場面でも、動物の死を確認したあとでも、家族の反応には重なるところがあります。

静かに泣く方。
声を上げて泣く方。
何度も名前を呼ぶ方。
体から手を離せなくなる方。
何も言えず、立ち尽くす方。

そして、多くの方が二つの言葉を口にします。

「ありがとう」
「ごめんね」

感謝と謝罪は、反対の感情ではありません。

大切に思っていたから、ありがとうが出る。
大切に思っていたから、足りなかったことを探してしまう。

もっと早く気づけたのではないか。
別の治療があったのではないか。
入院させず、家へ連れて帰ればよかったのではないか。
苦しませたのではないか。

看取りのあとに残る「ごめんね」は、愛情がなかった証拠ではありません。

ただし、「後悔するほど愛していた」と言われても、すぐには救われないこともあります。

知りたいのは、愛情の有無ではなく、あの子を苦しませたかどうかだからです。

だから、無理に後悔を美しい言葉へ変えなくても構いません。

まずは、なぜその選択をしたのか。
そのとき何を知っていて、何が分からなかったのか。
当時の時間へ戻して考える必要があります。

ペットロスでは、最期の数時間が大きくなりすぎる

亡くなったあと、最期の場面だけが繰り返し浮かぶことがあります。

荒くなった呼吸。
動かなくなった体。
病院へ向かう車内。
獣医師から告げられた言葉。
最後に触れたときの温度。

衝撃の強い記憶ほど、頭の中で何度も再生されます。

すると、一緒に過ごした何年もの時間が、最期の数時間に覆われてしまいます。

けれど、その子の一生は、亡くなる場面だけではありません。

ごはんを待っていた朝。
呼んでも来なかったのに、冷蔵庫を開ける音では来た日。
眠る場所を少しずつ奪われた夜。
薬だけ器用に吐き出した顔。
何でもない日に、ただ隣にいた時間。

それらもすべて、その子の生涯です。

最期の一日には、記憶を染める力があります。しかし、その一日だけに、一緒に生きた年月を採点させてはいけません。

ペットロスは「動物を失った悲しみ」だけではない

ペットロスには、いくつもの喪失が重なっています。

大切な家族を失った。
世話をする役割を失った。
毎日の時間割を失った。
帰宅を待ってくれる存在を失った。
自分を必要としてくれる関係を失った。

さらに、看取りを経験した方には、治療判断への後悔が加わります。

あの手術でよかったのか。
点滴を続けるべきだったのか。
もっと早く病院へ行けたのではないか。
家で看取るべきだったのか。
安楽死を選ぶべきだったのか。

動物医療の知識だけでは、その後の不眠、自責、生活の空白までは十分に見えないことがあります。

反対に、精神医療の視点だけでは、動物の病気、治療の選択、安楽死、入院と在宅の判断が、飼い主にどれほど重く残るかを捉えきれないことがあります。

私は、獣医師として動物の看取りに関わり、医師として人の終末期にも立ち会ってきました。

二つの現場を経験したからこそ、ペットロスを「動物を亡くして悲しい」という一文だけで扱うことはできません。

そこには、命を預かった時間があります。

治療を選んだ時間。
治療をやめるか迷った時間。
家へ連れて帰るか考えた時間。
呼吸を見守った夜。
そして、亡くなったあとも答えを探し続ける時間があります。

看取りは、正解を当てる試験ではない

看取りを振り返ると、多くの方が同じ問いにたどり着きます。

「私の判断は、正しかったのでしょうか」

しかし、看取りは正解を当てる試験ではありません。

そのとき分かっていた病状。
獣医師や医師から受けた説明。
本人や動物の体力。
家族の生活。
治療によって期待できることと、その負担。

限られた材料を前にして、一つを選ぶ。

後からなら、いくらでも別の道が見えます。
結末を知っているからです。

けれど、決めた日のあなたには、結末は見えていませんでした。

分からないまま、それでも考えた。
怖くても、その場から逃げなかった。
最後まで、その命を自分のこととして抱えた。

看取りとは、命の時刻を当てることではありません。残された時間を、誰と、どこで過ごすかを考え続けることです。

完璧に見送れなかったのではありません。

完璧な答えのない場所で、その子のために考え続けたのです。

最期の瞬間に何ができたかだけで、看取りのすべては決まりません。

そばにいた年月そのものが、すでに長い看取りだったのです。

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