第71話 家に帰ると、ワンさんがヒコーキ耳で飛んでくる人のこころ|保谷駅前こころのクリニック|西東京市「保谷駅」北口すぐの心療内科

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第71話 家に帰ると、ワンさんがヒコーキ耳で飛んでくる人のこころ

第71話 家に帰ると、ワンさんがヒコーキ耳で飛んでくる人のこころ|保谷駅前こころのクリニック|西東京市「保谷駅」北口すぐの心療内科

2025年12月17日

玄関の鍵を回す。

カチャ。

その音を、家の中でずっと待っていた耳がある。

次の瞬間。

カチャカチャカチャカチャッ。

床を蹴る爪の音が、廊下の向こうから一気に近づいてくる。

口には、少しくたびれたぬいぐるみ。
耳は、左右へぺたんと倒れたヒコーキ耳。
しっぽは、もう振っているというより、体ごと揺れている。

ワンさんが、まっすぐこちらへ飛んでくる。

耳は後ろに倒れているのに、愛情だけは前のめりだ。

さっきまで会社で、返事をするのも面倒なくらい疲れていた。
電車の中では、誰とも目を合わせたくなかった。

それなのに、その姿を見た瞬間、声が出る。

「ただいま」

会社では一度も出なかったような、少し高くて、少し優しい声で。

「先生、帰ると、この子が飛んでくるんです」

診察室で、ずっと下を向いて話していた方がいました。

仕事のことを話す声は小さい。

「朝になると、会社へ行きたくなくて」
「昼休みも、ひとりで食べています」
「帰りの電車では、もう何も考えられません」

言葉が途切れる。
膝の上で組んだ指には、力が入ったままです。

ところが、ワンさんの話になった瞬間でした。

「でも、家に帰ると、この子が……」

そこで初めて、顔が少し上がる。

「ぬいぐるみをくわえて、ヒコーキ耳で飛んでくるんです」

口元が、ほんの少し緩む。

診察室の空気まで、わずかに変わります。

つらい仕事の話をしているときには一度も出なかった表情を、ワンさんの話が連れてきたのです。

私は、その変化を軽く扱わないようにしています。

人は、本当に何も感じられなくなってしまったとき、好きだったものの話をしても表情が動かなくなることがあります。

だから、ワンさんを思い出したときに声が少し柔らかくなることは、単に「犬が好き」というだけではありません。

その方の心の中に、まだ安心できる場所が残っているということです。

一日中、「ちゃんとした人」を演じて帰ってくる

仕事中、人は思っている以上に多くのことをしています。

言葉を選ぶ。
相手の機嫌を読む。
失礼がないように笑う。
メールを返す。
間違えないように確認する。
言いたいことがあっても、いったん飲み込む。

体は椅子に座っていても、神経は一日中立ちっぱなしです。

家に着いて、急に何もできなくなる。
玄関で座り込みたくなる。
ソファから動けなくなる。

それは、外で怠けていたからではありません。

外で一日分の「ちゃんと」を使い切ってきたのです。

そこへ、ワンさんが走ってくる。

今日の成績を聞かない。
返事が遅かった理由も聞かない。
愛想よくできたかどうかも採点しない。

ただ、帰ってきたという事実だけを、全身で喜ぶ。

ワンさんは、一日の事情を聞かない。
帰ってきたあなたを、そのまま合格にする。

玄関が「緊張の出口」に変わる

犬と目が合う。
名前を呼ぶ。
頭をなでる。
胸元の温かさに触れる。

そうした言葉のいらないやりとりは、考えるより先に体へ届きます。

人と犬が見つめ合ったり触れ合ったりすることで、双方のオキシトシンの変化が報告されています。ただし、大切なのは「ホルモンが出るから癒やされる」と単純化することではありません。

毎日繰り返される、

「帰ってきた」
「待っていた」
「今日も会えた」

というやりとりそのものが、安心の記憶になります。

ワンさんの体温に触れる。
呼吸の速さを感じる。
名前を呼ぶ。

その一つひとつが、一日中外へ向いていた神経を、少しずつ家の中へ戻していきます。

玄関は、家の入口であるだけではありません。
張りつめていた心が、ようやく外から出られる場所でもあります。

なぜ、ぬいぐるみをくわえてくるのか

帰宅すると、おもちゃをくわえてムフムフ言いながら迎えに来るワンさんがいます。

「遊ぼう」と誘っていることもあるでしょう。
うれしさが大きすぎて、何かを口にくわえることで気持ちを落ち着かせていることもあります。
大切なものを見せに来ているように見えることもあります。

その理由を、人の言葉でひとつに決めることはできません。

けれど、飼い主さんには分かります。

この子は、今、ものすごく喜んでいる。

ぬいぐるみをくわえたままなので、吠え声は少しくぐもっている。
しっぽが家具に当たり、バンバンと音がする。
興奮しすぎて、一度通り過ぎてから、また戻ってくる。

その全部を使って、

「今日も帰ってきた」

と言っているように見えるのです。

「ただいま」を言う相手がいるということ

ひとり暮らしの部屋では、帰宅しても「ただいま」を言わない人がいます。

けれど、ワンさんがいると、玄関を開けた瞬間に自然と言葉が出る。

「ただいま」
「待ってたの」
「今日もいい子だったね」

返事は、人間の言葉では返ってきません。

それでも、そこには会話があります。

ワンさんは、今日あった出来事を解決してくれるわけではありません。職場の人間関係も、締め切りも、翌朝の憂うつも消してはくれません。

けれど、傷ついたまま帰ってきた人を、玄関でいったん受け止めることはあります。

問題を解決できなくても、人を帰還させる存在はいる。

ワンさんは、ときどき、その役目を黙って引き受けています。

その時間が、前より大切になっているなら

最近、帰宅したときのワンさんとの時間が、以前よりも大切に感じられる。

顔をうずめている時間が長くなった。
なかなか立ち上がれない。
「この子がいなかったら」と考えることが増えた。

それは、ワンさんへの愛情が深いからでしょう。

同時に、外で受けている疲労が大きくなり、安心を必要とする度合いが増えている可能性もあります。

眠れない。
食べられない。
朝になると涙が出る。
仕事へ向かおうとすると動悸がする。
休みの日も、ほとんど動けない。

そこまで続いているなら、ワンさんとの時間だけで何とか持ちこたえようとせず、人間側の休息や治療も必要です。

ワンさんは支えにはなってくれます。

けれど、飼い主さんの限界を背負わせるために、一緒に暮らしているわけではありません。

その子を大切にしたいなら、その子が待っている自分のことも、大切にしてよいのです。

今日も、玄関の向こうで待っている

いつもの帰り道。

足は重い。
肩も痛い。
今日言われた言葉が、まだ頭の中に残っている。

それでも、自宅が近づくと少しだけ想像する。

鍵を開ける音。
廊下を走る爪の音。
口にくわえた、あのぬいぐるみ。
そして、ぺたんと倒れたヒコーキ耳。

もしかすると人は、家そのものへ帰っているのではないのかもしれません。

自分の帰りを待つ命のところへ、帰っている。

ただいまを待つ命がいると、人は一日を「帰り切る」ことができます。

ワンさんがヒコーキ耳で飛んでくる。

その光景は、永遠には続かないからこそ、何でもない今日の中で光っています。

あとから思い出すのは、特別な記念日だけではありません。

玄関の音。
床を蹴る小さな足音。
少し湿ったぬいぐるみ。
全身でこちらを喜んでくれた姿。

いつか思い出の中で何度も開けることになる玄関を、私たちは今日も、何気なく開けています。

だから今夜は、ほんの数秒だけ急がずに。

飛んできたワンさんの名前を呼んで、正面から受け止めてあげてください。

その子にとって、あなたが帰ってきた瞬間は、
今日という一日の中で、いちばんうれしい出来事なのです。

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