2026年2月20日
最寄り駅には着いています。
家まで十分もかかりません。
けれど、改札を出たあと、いつもの道へ曲がれない。
コンビニへ入る。
必要のない棚を眺める。
コーヒーを買う。
店を出ても、まだ帰りたくない。
家のドアを開けた瞬間、
「あの子がいない」
という現実が待っているからです。
外では、不在が少しだけ見えにくい
職場には人がいる。
電車には音がある。
店には音楽が流れている。
外にいる間も悲しい。
それでも、目の前の刺激が心を支えてくれます。
家へ帰ると、音が止まります。
出迎える足音がない。
いつもの場所が空いている。
「ただいま」と言っても反応がない。
昼間保てていたものが、玄関で崩れます。
帰宅は、一日一回の再会だった
ペットと暮らしていた頃、帰宅は単なる移動の終点ではありませんでした。
扉の向こうで待っている。
名前を呼ぶ。
顔を見る。
一日離れていた相手と、毎晩もう一度会う時間でした。
亡くなったあと、帰宅という行動だけが残り、再会がなくなります。
家に帰るのが怖いのは、家が嫌いになったからではありません。帰るたびにあった再会だけが、なくなったからです。
寄り道は、心が時間を稼いでいる
まっすぐ帰らない自分を、逃げていると責める必要はありません。
心が、現実に触れるまでの時間を少し延ばしています。
ただ、毎晩遅くまで帰れず、食事や睡眠が崩れているなら、帰宅の衝撃を小さくする工夫が必要です。
家へ入ったら、まず灯りをつける。
音楽やラジオを流す。
玄関で短く名前を呼ぶ。
すぐにすべての部屋を見回さない。
帰宅直後に何もできなくなるなら、食事を作ることまで求めない。
家に入るという一つの行動だけで、その日は十分なこともあります。
いつか寄り道が短くなっても、忘れたわけではありません。
その家が、「いないことを確認する場所」から、「一緒に暮らした場所」へ少しずつ戻ってきたということです。
