第376話 ペットの安楽死を選んだ後悔が消えない方へ|「自分が命を終わらせた」と感じてしまうとき【東京・保谷駅前こころのクリニック】|保谷駅前こころのクリニック|西東京市「保谷駅」北口すぐの心療内科

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第376話 ペットの安楽死を選んだ後悔が消えない方へ|「自分が命を終わらせた」と感じてしまうとき【東京・保谷駅前こころのクリニック】

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2026年5月29日

犬や猫の安楽死を選んだあと、自分が命を終わらせた、自分が楽になりたかっただけではないかと責め続けている方へ。安楽死の同意に責任が集中する理由、選ばなかった未来がよく見える仕組みを、獣医師でもある精神科医が考察します。



診察室の白い台の上に、その子が横たわっています。


呼吸は速い。ときどき顔を上げようとするけれど、すぐに力が抜ける。


獣医師が説明しています。


病気はかなり進んでいること。できる治療が限られていること。このままでは苦しい時間が続く可能性があること。


言葉は聞こえています。


けれども、意味がうまく頭に入りません。


「今日、決めなければいけないのですか」


自分の声なのに、遠くから聞こえるように感じます。


もう一度説明を受ける。家族と顔を見合わせる。何度もその子の顔を見る。


最後に、同意する。


そのときの自分の声、署名した文字、ペンを置いた音まで覚えている方がいます。


数日後、あるいは数か月後。


頭に浮かぶのは、病気の経過ではありません。


最後に「お願いします」と言った、自分の言葉です。


「あの言葉さえ言わなければ、まだ生きていたのではないか」


ペットの安楽死を選んだあとには、悲しみだけでなく、「自分が決めた」という重さが残ることがあります。


最後に同意した人が、すべての責任を背負ってしまう


「先生から提案されたことも、病気が進んでいたこともわかっています」


そう話したあと、言葉が止まります。


「でも、最後に決めたのは私です」


この一言に、安楽死後の自責が集まっています。


病気を起こしたのは飼い主ではありません。状態を悪化させたのも、飼い主の同意ではありません。


それでも、手続きの上では、飼い主が決めます。


動物は、自分で説明を聞き、同意書へ署名することができないからです。


その結果、長く続いていた病気の経過が見えなくなり、最期の決断だけが切り取られます。


「あの子が亡くなったのは、自分が同意したからだ」


時間の順序だけを見れば、同意のあとに亡くなっています。


しかし、病気の経過として考えれば、安楽死の話が出る前から、その子は重い状態にありました。


最後の同意は、病気を始めた決断ではありません。


すでに進んでいた病気と苦痛を前に、残された選択肢の中から決めたものです。


最後に署名した人が、病気のすべてを引き受ける必要はありません。


「自分が楽になりたかっただけではないか」


介護が長く続いていた方ほど、この問いに苦しむことがあります。


夜中も何度も起きた。食事を口元まで運んだ。排泄を手伝った。呼吸や発作が気になり、家を空けられなかった。


身体も気持ちも、限界に近づいていた。


その中で安楽死を選んだ。


すると亡くなったあと、


「あの子のためではなく、自分が介護から解放されたかったのではないか」


という考えが浮かびます。


介護がつらかったことと、その子を大切に思っていたことは両立します。


疲れていた。眠りたかった。苦しい姿を見ることに耐えられなかった。


それは、愛情がなかった証拠ではありません。


苦痛を見続けることは、飼い主にも大きな負担です。飼い主が限界を感じたことだけを取り出し、「だから判断は自分のためだった」と結論づけることはできません。


その子の苦痛を減らしたい気持ちと、自分も苦しさから解放されたい気持ちが、同時に存在することもあります。


人の決断は、一つのきれいな理由だけでできているとは限りません。


複数の感情があったからといって、愛情まで偽物になるわけではありません。


「まだ生きたかったのではないか」という問い


安楽死を選んだ方の多くが考えます。


「あの子は、まだ生きたかったのではないか」


水を少し飲んだ。名前を呼ぶと目を開けた。尻尾をわずかに動かした。抱き上げると、こちらを見た。


その一つひとつが、「生きたい」という意思表示だったように思えてきます。


動物がその瞬間に何を感じていたのかを、人間が完全に知ることはできません。


だから、「あの子は安楽死を望んでいた」と簡単に言い切ることもできません。


一方で、一度目を開けたことや水を飲んだことだけから、苦痛が小さかったとも判断できません。


動物の状態を考えるときには、一つの仕草だけでなく、呼吸、痛み、食事、排泄、移動、睡眠、回復の見込みなど、全体を見る必要があります。


飼い主の記憶は、最期に残った小さな反応を強く握ります。


それは当然のことです。


けれども、その一瞬だけが、当時の身体状態のすべてではありません。


「まだ生きたかったのではないか」という問いに、完全な答えは出ません。


答えが出ないのは、飼い主の理解が足りないからではなく、言葉を交わせない相手の命について決めること自体に、埋められない部分があるからです。


安楽死を選ばなかった世界は、穏やかだったとは限らない


安楽死を選んだあと、飼い主は別の時間を想像します。


あと一日あれば、食べたかもしれない。
治療が効いたかもしれない。
家へ連れて帰れば、安心して眠れたかもしれない。
もう一度、元気な顔を見られたかもしれない。


想像の中では、その子は苦しまずに生きています。


しかし、安楽死を選ばなかった場合に何が起きたかは、誰にもわかりません。


回復した可能性だけではなく、呼吸困難、けいれん、痛み、意識の低下などが続いた可能性もあります。


選ばなかった未来には、実際には起きなかったため、映像がありません。


そのため、穏やかな場面だけを置くことができます。


一方、選んだ未来には、実際の最期の記憶があります。


現実の最期と、苦痛のない想像上の未来を比べれば、現実は必ずつらく見えます。


安楽死の後悔を考えるときには、選ばなかった未来を、良い結果だけで作らないことが必要です。


「正しかった」と言われても、楽にならない


周囲の人は、何とか慰めようとします。


「苦しませないためだったんだよ」


「正しい判断だったよ」


「十分に考えたじゃない」


どれも、責めるつもりで言われた言葉ではありません。


それでも、飼い主の心には届かないことがあります。


本人が知りたいのは、一般論として正しかったかどうかではないからです。


「あの子にとって、本当によかったのか」


それを知りたい。


しかし、その問いに完全に答えられる人はいません。


すると、「正しかった」と断言されるほど、わかってもらえていないように感じることがあります。


安楽死後の後悔を整理することは、判断を無理に正解へ変えることではありません。


当時、何がわかっていたのか。どのような苦痛があったのか。どの選択肢が残っていたのか。何を守ろうとして決めたのか。


そこまで戻って考えることです。


正解だったと言い聞かせるのではなく、限られた状況で決めなければならなかった自分を、現在の自分が一方的に有罪にしないことです。


当時の自分と、現在の自分は同じ情報を持っていない


現在の自分は、結果を知っています。


亡くなった時刻も、最期の表情も、その後どれほどつらくなったかも知っています。


当時の自分は、結果を知りません。


説明を受けても、回復の可能性を正確に見通すことはできなかった。どちらを選んだ場合に、どのような最期になるのかもわからなかった。


それでも、時間の限られた中で決めなければならなかった。


結果を知る現在の自分が、結果を知らなかった当時の自分へ、


「別の選択をすべきだった」


と言うのは簡単です。


しかし、それは同じ条件での比較ではありません。


当時の自分を考えるときには、現在持っている情報をいったん置く必要があります。


そのとき、何を説明されていたのか。


目の前のその子は、どのような状態だったのか。


自分は何を最も避けたいと考えていたのか。


安楽死を選んだという結論だけでなく、そこへ至るまでの時間を戻していく。


決断だけを切り取ると、自責になる。決断までの時間を戻すと、そこに迷いと愛情が見えてきます。


安楽死を選ばなかった人にも後悔は残る


安楽死を選ばなかった方は、反対の後悔を抱えることがあります。


「もっと早く苦しみを止めてあげればよかった」


「自分が手放せなかったために、つらい時間を延ばしてしまった」


自然に亡くなるのを待った人にも、強い自責が残ります。


これは、どちらかの選択にだけ問題があるのではないことを示しています。


命の終わりについて、苦痛を完全になくし、別れの時期にも納得し、何の迷いも残らない選択肢は、現実にはほとんどありません。


早すぎたのではないか。


遅すぎたのではないか。


飼い主は、どちらを選んでも、反対側の後悔を想像できます。


後悔があることは、判断を誤った証明ではありません。


どちらにも大切なものがあり、どちらを選んでも何かを失う判断だったことの表れでもあります。


「許してもらう」ことだけを目標にしない


亡くなったその子へ、心の中で何度も謝る方がいます。


「ごめんね」


「許してね」


謝ることで気持ちが少し動くこともあります。


一方で、「許してもらえなければ前へ進んではいけない」と考えると、自分を罰する時間が続きます。


その子が自分を恨んでいたか、許してくれたか。その答えを確認することはできません。


確認できない答えを待ち続ければ、飼い主は永遠に判決を待つ立場になります。


安楽死を選んだ自分を、すぐに許す必要はありません。


ただ、罰し続けることだけが、その子を大切に思う方法でもありません。


一緒に暮らしていた時間の中で、その子は、最期の日の判断だけを見ていたわけではありません。


毎日の食事、声、匂い、触れられた感覚、安心して眠った場所。


その積み重ねの中に、飼い主との関係がありました。


最期に一つの決断をした人ではなく、その日まで一緒に暮らしてきた人として、自分を見る時間も必要です。


答えが出なくても、問いの形は変えられる


「安楽死を選んで正しかったのか」


この問いには、完全な答えが出ないかもしれません。


そこで、少し問いを変えてみます。


「あの時点で、私は何を守ろうとしていたのか」


苦痛を長引かせたくなかった。怖い最期にしたくなかった。できる限りそばにいたかった。その子らしさが失われていく時間を、どこまで続けるのか考えた。


そこにあったものは、単なる生死の選択ではありません。


治せない病気の前で、残された時間と苦痛をどう扱うかという判断でした。


正しかったか、間違っていたか。


その二つだけで見ようとすると、安楽死を選んだ人は、自分を裁く場所から動けなくなります。


答えが出ない問いを捨てる必要はありません。


ただ、その問いの隣に、


「あのとき、自分は何を大切にしていたのか」


という別の問いを置いてみる。


後悔がすぐに消えなくても、記憶の中に、決断以外のものが少しずつ戻ってくることがあります。


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