ペットロスで「もっと優しくしてあげればよかった」と後悔しているあなたへ|叱ったこと、遊べなかったことを責め続けてしまうとき【東京】|保谷駅前こころのクリニック|西東京市「保谷駅」北口すぐの心療内科

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ペットロスで「もっと優しくしてあげればよかった」と後悔しているあなたへ|叱ったこと、遊べなかったことを責め続けてしまうとき【東京】

ペットロスで「もっと優しくしてあげればよかった」と後悔しているあなたへ|叱ったこと、遊べなかったことを責め続けてしまうとき【東京】|保谷駅前こころのクリニック|西東京市「保谷駅」北口すぐの心療内科

2026年9月10日

「先生、もっと優しくしてあげればよかったんです」

そう話す方がいます。

何か大きなことをしたわけではありません。

病院へ連れて行かなかった、という話でもない。

治療を間違えた、という話でもない。

もっと日常的なことです。

散歩に行きたそうだったのに、

「今日は疲れたから明日にしよう」

と言った。

遊んでほしそうにおもちゃを持ってきたのに、

「あとでね」

と言った。

仕事から帰ってきて、ずっとスマートフォンを見ていた。

吠えたので叱った。

忙しくて、声をかける余裕がなかった。

抱っこしてほしそうだったのに、家事を続けた。

ごはんを急かされて、

「ちょっと待って」

と強い口調で言った。

生きていたころなら、翌日には忘れていたような出来事です。

ところが、亡くなったあと、その一日だけが急に戻ってくることがあります。

「どうして、あのとき散歩に行かなかったんだろう」

「なんであんなことで怒ったんだろう」

「スマホなんて見ないで、もっと撫でてあげればよかった」

そして最後には、

「私は、ちゃんと大切にできていなかったのではないか」

というところまで、自分を責めてしまう。

ペットロスでは、こんなことが起こります。

亡くなったあと、人は愛した記憶よりも、

愛せなかった数分を集め始めることがあります。

一緒にいた十数年より、「散歩を断った一日」が残る

考えてみれば、不思議なことです。

毎日ごはんを用意した。

何百回、何千回と散歩に行った。

具合が悪ければ心配した。

雨の日にも病院へ行った。

暑くないか。

寒くないか。

食べているか。

眠れているか。

ずっと気にかけていた。

それなのに、亡くなったあとになると、

散歩に行かなかった一日。

強く叱った一回。

遊んであげなかった夜。

留守番をさせた日。

そこだけが、やけに鮮明になります。

「もっと一緒にいた時間があったはずなのに、どうして私はあの日のことばかり思い出すんでしょう」

そう感じる方もいます。

理由の一つは、もうやり直せないからだと思います。

生きているうちなら、

「昨日は遊べなかったから、今日は遊ぼう」

ができます。

昨日少し怒ったなら、今日は優しくすればいい。

昨日散歩が短かったなら、今日は少し長く歩けばいい。

関係が続いている間は、日常の中で自然に修正できます。

でも、亡くなったあとには、それができません。

だから、普通の一日だったはずの「あとでね」が、

突然、取り消せない言葉になります。

生きていたころの「あとでね」が、亡くなったあとには重くなる

ペットと暮らしている間、毎日すべてを完璧にできる人はいません。

仕事があります。

家事があります。

体調の悪い日もあります。

疲れている日もあります。

自分のことで精いっぱいの日もあります。

犬や猫から見れば、

「遊んでほしい」

ように見える日でも、

人間には、

「今日はもう無理」

という日があります。

でも、亡くなったあと、人はその日の自分に、

未来を知っていた人間のような判断を要求し始めます。

「あの日が最後の水曜日だと知っていたら、絶対に散歩へ行った」

「あれが最後におもちゃを持ってきた日だと知っていたら、絶対に遊んだ」

もちろん、そうでしょう。

でも、その日は最後の日だとはわかりませんでした。

来週もあると思っていた。

来月もあると思っていた。

また遊べると思っていた。

だから、

「あとでね」

と言えたのです。

あの日のあなたが冷たかったからではありません。

明日があると思っていたからです。

「叱ったこと」が最後まで残ってしまうとき

ペットロスでは、

「叱ったことを後悔している」

という話も出てきます。

家具を噛んだ。

トイレを失敗した。

夜中に鳴いた。

何度言っても同じことをした。

ごはんを催促した。

そのときは、こちらにも余裕がなかった。

つい大きな声を出してしまった。

亡くなったあと、

そのときの顔が急に浮かびます。

「怖かっただろうな」

「どうしてあんなことを言ったんだろう」

「あの子に悪いことをした」

でも、一緒に暮らすということは、毎日が感動的な時間になることではありません。

生活です。

生活には、

嬉しい日も、

面倒な日も、

疲れている日も、

叱ってしまう日もあります。

それでも翌日には、また同じ部屋にいた。

ごはんを食べた。

名前を呼んだ。

散歩に行った。

一緒に寝た。

そうやって関係は続いていました。

一度叱ったことだけを切り取って、

その子との関係全体の意味にしてしまわないことです。

一回の失敗だけで、その子との関係全体を決めない

犬や猫と人との関係は、

一回の出来事だけで作られているわけではありません。

毎日の声。

匂い。

足音。

触れ方。

ごはんの時間。

寝る場所。

散歩のコース。

帰宅する時間。

そういう繰り返しの中で、関係ができていきます。

飼い主は、

「昨日強く怒ってしまった」

という一場面を強く記憶していても、

その子との暮らしは、もっと長い時間の中にありました。

もちろん、

「だから叱っても問題ない」

という話ではありません。

もっと優しくできた、と思うことはあるでしょう。

でも、

一度の失敗と、

その子との関係全体を、

同じものとして扱わないことです。

人は死後になると、一場面を拡大しすぎることがあります。

なぜ、自分に厳しい記憶ばかり集めてしまうのか

亡くなったあと、記憶をたどり始める方がいます。

「あのときも遊ばなかった」

「そういえば、あの日も留守番させた」

「去年の夏も散歩を短くした」

「あのときも怒った」

一つ思い出すと、また一つ出てくる。

まるで、

「自分がよい飼い主ではなかった証拠」

を集めているようになります。

でも、不思議なことに、

毎朝ごはんを出したこと。

何千回も名前を呼んだこと。

具合が悪い夜に起きたこと。

雨の日に病院へ連れて行ったこと。

寒そうだから毛布を掛けたこと。

何となく元気がないだけで心配したこと。

そういう出来事は、

「当たり前だった」

として数えません。

自分に厳しい記憶だけを証拠採用し、

自分に有利な記憶は全部却下している。

そんな状態になることがあります。

もし本当に、その子との関係を振り返るのであれば、

両方を証拠に入れなければ公平ではありません。

「もっとしてあげたかった」と「してあげなかった」は違う

ペットロスでは、

「もっとしてあげたかった」

という気持ちが、

いつの間にか、

「私は何もしてあげなかった」

に変わることがあります。

でも、この二つは違います。

もっと散歩に行きたかった。

もっと一緒に寝たかった。

もっと抱っこしたかった。

もっと写真を撮りたかった。

もっと名前を呼びたかった。

そう思うのは、

足りなかったからとは限りません。

終わってしまったからです。

どれだけ一緒にいても、

別れが来れば、

「もっと」

は残ります。

十年一緒にいても、もっと欲しい。

十五年でも、もっと欲しい。

二十年でも、

「あと一日」

と思うかもしれません。

「もっと」という気持ちは、

それまでが少なかった証拠ではありません。

大切だったから、終わりが足りなく感じるのです。

「もっと写真を撮ればよかった」という後悔

亡くなったあと、スマートフォンの写真を何度も見返す方もいます。

そして、

「もっと撮ればよかった」

と思う。

写真が何千枚あっても、そう思うことがあります。

反対に、

「あのころ写真ばかり撮らず、もっとちゃんと見ていればよかった」

と後悔する方もいます。

写真を撮れば、

「もっと直接見ればよかった」

と思う。

写真を撮らなければ、

「もっと残しておけばよかった」

と思う。

どちらを選んでも、選ばなかった方がよく見える。

でも、苦しいのは写真の枚数だけではありません。

もう新しい写真が増えない。

新しい散歩の記憶も増えない。

新しい寝顔も見られない。

昨日までは増えていた「あの子との記憶」が、

ある日から増えなくなる。

ペットロスでは、この「もう増えない」ということも、大きな喪失です。

忙しかった自分を責めてしまうとき

「仕事が忙しくて、あまり構ってあげられなかったんです」

そう話す方もいます。

朝は急いで家を出た。

帰宅も遅かった。

休みの日は疲れて寝ていた。

散歩も家族に任せた。

もっと一緒にいればよかった。

亡くなったあと、

仕事をしていた時間そのものが、

あの子から奪った時間のように感じることがあります。

でも、その当時には、その当時の生活があります。

働かなければならなかった。

身体も疲れていた。

家事もあった。

人間の生活も続いていた。

その中で、一緒に暮らしていました。

今の自分は、

その子と過ごせる時間がもう増えないことを知っています。

だから、当時ほかのことに使っていた時間が、

全部もったいなく見えてしまう。

けれど、一緒に暮らすということは、

一日中その子だけを見続けることではありません。

普通の日常の中に、お互いがいたということでもあります。

「愛していた」と「いつも優しかった」は同じではない

ここは、とても大切だと思っています。

愛していたのなら、

毎日優しくできたはず。

そう思ってしまう方がいます。

でも、

「愛していた」

と、

「いつも完璧に優しくできた」

は同じではありません。

大切な家族に腹が立つことがあります。

冷たい返事をしてしまうこともあります。

疲れていて、相手の求めていることに応えられない日もあります。

それでも、大切にしていなかったことにはなりません。

ペットとの関係も、生活である以上、同じです。

「あの日優しくできなかった」

から、

「私は愛していなかった」

まで飛ばないことです。

そこには大きな距離があります。

自分を責め続けることと、覚えていることは同じではない

ペットロスの自責感には、少し複雑なところがあります。

「もっと優しくすべきだった」

と考え続けている間は、

ずっとあの子のことを考えています。

そのため、

自分を責めることと、

その子を忘れないことが、

いつの間にか一緒になってしまうことがあります。

自分を責めるのをやめたら、

「あの子を忘れてしまうのではないか」

「反省しなくなったら薄情なのではないか」

そんな感覚になることもあります。

でも、

大切だったことを覚えている方法は、

自分を罰し続けることだけではありません。

かわいかったことを思い出してもいい。

楽しかったことを覚えていてもいい。

笑ったことを思い出してもいい。

失敗した自分を責めることだけが、

その子との関係を守る方法ではありません。

後悔を整理するとき、私は「一日」ではなく「関係」を見る

「もっと優しくしてあげればよかった」

という気持ちが強いとき、

一日の出来事だけを見てしまっていることがあります。

あの日叱った。

あの日遊ばなかった。

あの日留守番をさせた。

でも、その子との関係は、一日でできたものではありません。

その子と何年暮らしたのか。

普段、どんなふうに過ごしていたのか。

何をすると喜んだのか。

どんな名前の呼び方をしていたのか。

具合が悪いとき、どうしていたのか。

帰宅するとどうしていたのか。

そして、

あなたは、その子のどんなところが好きだったのか。

そこまで戻ります。

「叱った一日」ではなく、

「一緒に暮らした関係」に視野を広げる。

一つの場面だけで、自分を判決しないためです。

あの子との生活を、悪かった日の総集編にしない

亡くなったあと、人の記憶は不思議です。

うまくできなかった日ばかりを拾ってきます。

もっと散歩すればよかった。

もっと撫でればよかった。

もっと写真を撮ればよかった。

もっと優しく言えばよかった。

もっと一緒にいればよかった。

その「もっと」を集め続けると、

まるで、その子との生活全体が後悔だったように感じてしまいます。

でも、本当にそうだったでしょうか。

一緒に笑った日もあったはずです。

元気に走った日もあった。

何でもない朝もあった。

帰宅しただけで喜んでくれた日があった。

気づけば隣で眠っていた夜もあった。

ペットとの生活は、

「もっとしてあげればよかったこと」の一覧ではありません。

その子と暮らした時間そのものです。

「もっと優しくしたかった」という気持ちは、残っていていい

この記事を読んだからといって、

「もう後悔するのはやめよう」

と思わなくても大丈夫です。

「もっと優しくしたかった」

という気持ちは、残ることがあります。

その気持ちを無理に消す必要はないと思っています。

ただ、

「もっと優しくしたかった」

と、

「私は優しくなかった」

は違います。

「もっと遊びたかった」

と、

「私は遊んであげなかった」

も違います。

「もっと一緒にいたかった」

と、

「一緒にいなかった」

も違います。

悲しみの中では、

この違いが見えなくなることがあります。

最後に

一緒にいた十数年を思い出しているはずなのに、

なぜか浮かんでくるのは、

散歩を断った一日。

強く叱った一回。

遊んであげなかった夜。

そんなことがあります。

生きていたころなら何でもなかった「あとでね」が、

亡くなったあとには、とても重い言葉になる。

でも、

あの日のあなたは、

その言葉が最後になるとは知りませんでした。

明日もあると思っていた。

また散歩できると思っていた。

また遊べると思っていた。

だから、普通の日常を送っていたのです。

完璧に優しくできなかった日があったことと、

その子を大切にしていなかったことは、

同じではありません。

亡くなったあと、人は、

愛せなかった数分を集めてしまうことがあります。

でも、その子との関係を振り返るなら、

愛した時間も、

同じだけ数えてあげてください。

あなたとその子の物語は、

叱ってしまった一日だけでできているわけではありません。

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