2026年3月20日
午前2時。
電気を消して、目を閉じる。
けれど、眠れない。
いつもなら聞こえていた足音がしない。
水を飲む音もしない。
布団の端が沈むこともない。
静かなはずの部屋で、いないはずのあの子の気配だけが、妙にはっきりしてくる。
枕元のスマートフォンに手を伸ばす。
写真を一枚だけ見るつもりだった。
一枚が、二枚になる。
元気だった頃の動画が出てくる。
こちらを見ている。
名前を呼ぶ自分の声も入っている。
再生を止めても、頭の中では、その先が続いてしまう。
「あの日、もっと早く気づいていれば」
「あの治療でよかったのだろうか」
「最後は苦しくなかっただろうか」
眠れない夜は、ただ寂しいだけではありません。
昼間には何とか押さえていた後悔や疑問が、暗くなった部屋の中で、一斉にこちらを向くのです。
なぜ、夜になるとつらくなるのか
昼間は、悲しみから少し離れられます。
仕事がある。
人と話す。
買い物をする。
電車に乗る。
食事を作る。
次にすることが、次々にやってきます。
ところが夜になると、その流れが止まります。
外から入ってくる音も、人との会話も減っていく。
そして、あの子がいなくなったあとの部屋が、そのまま目の前に残ります。
以前なら、眠る前に声をかけていた。
薬を飲ませていた。
トイレを確認していた。
寝床を整えていた。
同じ布団に入っていた。
夜は、あの子との暮らしが最も濃く残っている時間なのかもしれません。
だから、夜が来るたびに悲しくなる。
それは、夜に弱くなったからではありません。
身体の中に残っている「あの子と暮らす時間割」が、まだ終わっていないのです。
あの子がいなくなっても、身体はしばらく、あの子のいる夜を続けようとします。
音がしないのに、耳が待っている
廊下から足音が聞こえた気がして、顔を上げる。
布団の上で何かが動いたように感じて、手を伸ばす。
帰宅すると、以前あの子がいた場所を無意識に見る。
頭では、もういないと分かっています。
それでも、耳や目や手は、いつもの続きを待っています。
毎晩聞いていた音。
毎晩触れていた体温。
毎晩交わしていた、小さなやり取り。
それらは単なる習慣ではありません。
あの子と一緒に暮らしていた証拠です。
生活から姿が消えても、身体の記憶まですぐには消えません。
夜になるとあの子を強く感じるのは、現実を受け入れられていないからとは限りません。
あなたの身体が、まだ丁寧に、あの子との暮らしを覚えているのです。
「眠らなければ」と思うほど、夜は長くなる
時計を見る。
午前2時20分。
明日も仕事がある。
早く眠らなければならない。
そう考えた瞬間、胸がざわつき始めます。
「このまま朝まで眠れなかったら」
「明日、仕事で失敗するかもしれない」
「また夜が来るのが怖い」
眠ることが、いつの間にか試験のようになります。
けれど、悲しみの中にいる心を、命令で眠らせることはできません。
今夜の目標は、「きちんと眠る」ではなくてもよいのです。
これ以上、自分を責めない。
今夜のうちに、答えを出そうとしない。
眠れない自分まで、嫌いにならない。
それだけでよい夜もあります。
写真を閉じることは、あの子を閉じることではない
見れば、つらくなる。
でも、見ずにはいられない。
写真や動画は、あの子がいた世界へ戻るための、いちばん近い入口です。
だから、深夜に何度も開いてしまう。
声を聞きたい。
動いている姿を見たい。
本当に一緒に暮らしていたことを、もう一度確かめたい。
見てはいけないわけではありません。
ただ、つらさが止まらなくなったときには、いったん画面を伏せてもよいのです。
写真を閉じても、あの子との時間まで閉じられるわけではありません。
思い出から離れる時間は、愛情から離れる時間ではありません。
午前2時に、自分を裁かない
夜中の頭は、過去を厳しく裁きます。
なぜ、もっと早く病院へ行かなかったのか。
なぜ、あの治療を選んだのか。
なぜ、最後の変化に気づかなかったのか。
けれど、午前2時に開かれる心の裁判では、たいてい自分に不利な証拠ばかりが並びます。
一緒に過ごした日々。
毎日の食事。
通院。
散歩。
名前を呼んだ回数。
何でもなかった夜のぬくもり。
そうしたものは、なぜか証拠として提出されません。
今夜、あのときの判断が正しかったのかを決める必要はありません。
夜には、夜の悲しみがあります。
朝になれば、少し違う角度から見られることもあります。
眠れない夜に必要なのは、立派に乗り越えることではありません。
ただ、今夜を越えることです。
布団の端がもう沈まなくても、そこで一緒に眠った夜まで消えたわけではありません。
あの子のいない夜が始まっても、あの子と過ごした夜は、あなたの中から退室しません。
身体がまだ、あの子のいる夜を続けている。
今夜は、それでよいのだと思います。
